「有松絞り」・「鳴海絞り」

「有松絞り」「鳴海絞り」は江戸時代から約400年以上受け継がれている、日本が誇るべき伝統工芸の1つです。

有松・鳴海地域(現: 愛知県名古屋市緑区 )を中心に生産されたことからこの名称が生まれました。

「有松絞り」「鳴海絞り」は 国の伝統工芸品にも指定されており、江戸時代以降は国内の絞り染め製品の大半を生産しています。

「 有松絞り」・「鳴海絞り」の歴史

「有松絞り」「鳴海絞り」の歴史は江戸時代までさかのぼります。

今や日本を代表する絞りの生産地として有名ですが、繁栄と衰退を繰り返した歴史でした。江戸時代に栄華を極めた絞りは、現代また注目を集めています。

有松絞りの生みの親「竹田庄九郎」「三浦玄忠」(江戸時代)

江戸時代が幕を開けて間もない慶長13年(1608年)。もともと荒地で治安が良くなかったこの地域に新しい集落として「有松」が開かれました。稲作にも宿にも適さないこの地帯に移住した「竹田 庄九郎」らが当時、名古屋城の工事で九州から来ていた人々が着ていた絞り染めの着物を見て、「これは使える!」と思いつきます。

当時この地域で生産され始めていた「三河木綿」に絞り染めした手ぬぐいを東海道を往来する人々に土産として売るようになったことが「有松絞り」の発祥といわれています。

その後、 万治元年(1655年)に豊後(現:大分県)より移住した「三浦玄忠」の妻によって「豊後絞り」の技法が伝えられたことによって有松絞りの技術は大きな飛躍を遂げました。

技術の発展とともに絞り染めは盛んになり、他地域でも生産されるようになりはじめます。

天明元年( 1781年) そんな状況に危機感を感じた有松側は、尾張藩に他地域の絞り染め生産禁止を訴え、尾張藩は有松絞りの保護のため絞りの営業独占権を与えました。

藩からの手厚い保護を受けた有松の絞りは「街道一の名産品」と賞賛されるようになり、有松絞りの手ぬぐいや浴衣は、東海道を行く旅人たちの間で大人気の土産物になりました。

独占権を得て潤った豪商たちが建てた豪壮な街並みは現存しており、重要伝統的建造物群保存地区としても指定されています。

日本が誇る「絞り(SHIBORI)」へ(明治~現代)

その後、独占権が解除された幕末から明治にかけて衰退期を迎えるが、明治中期以降は販路の拡大や新技法の開発などの努力が実り、生産量も増加。特許の取得なども行われ、有松絞りは全盛期を迎えることになります。

全盛期にはなんと100を超える絞りの技法が生まれました。

そして、明治33年(1900年)フランスのパリで開催された世界万国博覧会には、優秀な有松絞りを出品。有松絞りは、世界の舞台に進出しました。

昭和に入り、第二次世界大戦時中また衰退するが、戦後日本社会の急成長のともに一時的に生産が増加します。しかし、昭和の中ごろ以降、着物市場の衰退、安価な中国製品との競争、後継者難などから生産量は減少し長い衰退期を迎えてしまいます。

令和の時代にはいった現在は、「藤娘きぬたや」の振袖や訪問着を芸能人やスポーツ選手が着用した影響などからまた注目を集めています。

絞りの最高峰「藤娘きぬたや

「有松絞り」というと一般的には浴衣や手ぬぐいなど綿生地を使用した製品が多くみられます。

そんななか、高級な絹製品の絞りで一線を画するのが「藤娘きぬたや」。

絞りの名産地である有松の地で「藤娘きぬたや」は、苦しい時代もその技術を高め続け日本を代表する絞りの名門になりました。 「藤娘きぬたや」は京友禅と京鹿の子絞りの技術を融合させることで誰も真似できない最高峰の絞りを生み出しました。

藤娘きぬたやの二代目「伊藤嘉秋」は、誰もできないと本疋田70立(生地巾に70粒を絞る)を実現させ、ニューヨークで3度の個展を成功させるました。そして、1997年、 「伊藤嘉秋」 の代表作「宴」は世界三大美術館のひとつである「メトロポリタン美術館」へ永久保存され、名実ともに世界に日本の絞りを認めさせたのです。

「藤娘きぬたや」取り扱い商品

蝶屋ではこの「藤娘きぬたや」の作品を全国でも屈指の数を取り揃えております。